エピソード0:人生は、後悔先に立たずッ!

ざわざわ・・・フサフサだった俺がハゲるだなんて、これは悪い夢に違いない・・・

時は、トネガワがまだ学生だった頃にまで遡るッ!

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1994年4月~2000年3月:地元の区立小学校時代

日本人(父)と台湾人(母)のハーフの家庭で生まれ育ったトネガワくん。

あまり豊かな家庭ではなかったため、サラリーマンの父と中国語学校教員の母に勉強をしなさい、うちに財産なんてないから勉強していい学校に行って、安定した会社に入って、偉くなりなさいと言われて幼少期を過ごしました。

トネガワトネガワ

そうか、うちには財産がないのか。ぼさっとしてられないな。自分の力で人生を切り開かないとな。

その影響か、自宅にたくさんの本があったからか、とにかく読書が好きな少年で、アウトドアな遊びよりもインドアな遊びを好む少年でした。

地元の区立小学校に進学したものの、自分は頭がいいと思っていたため、ある出来事をきっかけに中学受験を決意します。

中学受験は、子供の意志よりも親の意向でやる家庭が多く、ガチ勢は小3から塾に通う世界です。

その出来事とは、自宅ポストに入っていた日能研主催の全国公開模試(誰でもウェルカムなやつ)の招待状(要は、塾のビラ)との出会いです。

トネガワトネガワ

おっ、塾に通ってなくても受けられるみたいだぞ。ランキング形式で自分の順位が分かるのか、ゲームみたいで面白そうだな!

さっそく、両親にこれを受けたいというトネガワくん。非常に受験料が安かったこともあり、すんなりOKされる。

トネガワトネガワ

解けない問題もあったけど、普段の学校のテストでは味わえない緊張感があって楽しかったな!

試験から数週間が経過し、模試で好成績を収めた(上位20%くらい)ため、日能研の塾長から強烈なオファーを受けます。

塾長塾長

塾に行かず独学だけでこの成績なら、2年間頑張れば御三家(開成、麻布、武蔵という有名私立男子中高一貫校)にだって合格できますよ!お父さん、お母さん、チャレンジしましょうよ!我々は、トネガワくんの夢を心から応援します!

トネガワトネガワ

親父、自分がどれくらいのレベルまでいけるのか試してみたいんだ。頼むよ、チャレンジさせてほしいッ!

トネガワ父トネガワ父

分かった、言ったからには本気で取り組めよ。

こうして、レールの上の人生に乗っかるためにトネガワくんは、遅咲きながら小学校5年生のときに中学受験に取り組み始めたのでした。

今思えば、可愛気のない小学生です笑

2000年4月~2006年3月:都内の某私立中高一貫校時代

2年間頑張ったものの、残念ながら第一志望校の筑波大学附属駒場(以降、筑駒)と開成に落ちてしまったトネガワくん・・・

あのときの悔しさは、今でも覚えています・・・。

両親は、他人よりも遅いスタートだったのによく頑張ったよと褒めてくれましたが、自分のことが許せなかったトネガワくんは、合格発表の日に正座して一晩中泣いていました。

泣いているばかりでは、仕方なく滑り止めの大学受験刑務所と悪名高い私立男子校に6年間通うことになりました。

この学校は、校則が厳しい(茶髪NG、制服の襟元全開もアウツ!)ことと宿題の量が半端ないことが有名で、さらに言うと、フンドシで海を泳がせたり、深夜に峠を越える強歩大会をやったり、真冬に朝から剣道や柔道の寒稽古をするというゆとり教育に正面からケンカを売る校風が売りの変わった学校でした。ただ、当時は偏差値の割に進学実績が良く、御三家の武蔵中学よりも現役で東京大学に合格する学生が多かったのです。

実は、トネガワくんは、滑り止めに選ぶ学校で、両親の意見を聞かなかったのです。

筑波大学附属中高(以降、筑附)という筑駒(中学受験の偏差値TOP校、しかも国立なので授業料が安い)と同じ試験日の学校を両親は勧めたのですが、チャレンジャーなトネガワくんは、筑駒と開成のダブル合格を夢見て、安牌を取りに行きませんでした。受ければ合格間違いなしの偏差値であったのにも関わらずです。

この選択が、後に女性との関係構築の機会を大幅に減少させることになったとは、夢にも思いませんでした。

なぜなら、筑附は高偏差値の共学校であり、筑駒と同様に国立なので、コスパ抜群なのです・・・

今にして思えば、良家の令嬢もいたでしょうし、頭がよくてルックスがいい子もいたに違いありません。

将来の嫁候補とまでは言いませんが、昨今流行りの出会いツールであるマッチングアプリの中でも会員制の高級アプリでしか出会えないようないい女と子供の頃からの関係を構築する点において、最高の環境であったのではないかと思います・・・

ざわざわ、この時点に遡って人生をやり直したい、中高時代にデートをしたい・・・後悔先に立たずッ!

当時は、将来の女性との出会いの選択肢が減ったことになど気が付かず、筑駒と開成に落ちたことが悔しかったトネガワくんは、大学でこそ最高学府、すなわち東大に現役で入学してやるッ!と心に誓いました。

現役で東大に入学すれば、エリートになり、順風満帆な人生を歩めるという浅はかな考えに捕らわれていたのです・・・

所詮は、世間を知らないガキだったのです・・・

中高一貫校だったので、高校もエスカレータ方式で進学しました。(進学試験はありましたが)

相変わらず勉強はできたため、模試の順位や偏差値では十分に東京大学を狙える位置にいました。

言うまでもなくこの頃は、まだフサフサ。圧倒的、毛量ッ!

ハゲていた担任のA先生をうちの親父の頭といっしょですねと、いじる余裕がありました。(A先生、本当にすみません・・・)

高2の終盤からの予備校通いで、女の子との接点ができ、勉強ができたため、初めての女友達ができました。

その中でも美穂というお茶の水にある予備校で同じクラスに通っていた子とは、文系と理系で違うけど、一緒に東大を目指す仲でした。

このときのトネガワくんは、碌に女性経験を積んでいなかったため、休みの日にデートをしようとか一緒に遊ぶ提案をまるでできなかったのです・・・

結局、一度も誘えず大学受験の時を迎えてしまいました。

どうしようもないチキン野郎ですね。

2006年3月10日:運命の合格発表ッ!しかし、・・・

タイトルでネタバレしてますが、トネガワくんは東大理一に落ちてしまいます。

その差18点でしたので、数学の大問題(東大の理系は20点×6題の120点満点)があと一つ解けていれば合格という結果でした。

はっきり言うと、めっちゃ悔しかったです。

ざわざわ、この時点に遡って人生をやり直したい、東大に現役合格したい・・・後悔先に立たずッ!

2006年4月~2010年3月:不本意な進学をした大学時代

トネガワトネガワ

悔しい、東大に再チャレンジしたいから浪人したい・・・

トネガワ父トネガワ父

あのなぁ、浪人しても必ず合格するとは限らないし、何より卒業が1年遅くなるから、サラリーマンとしての年収が1年分減るんだぞッ!今は、就職氷河期も終わって景気がいいし、さっさっと進学してくれ。慶応と早稲田の工学部に受かってるんだから、学費のかからない方に行ってくれよ。

というやり取りがあり、泣く泣く早稲田の工学部に進学したのであった。(早稲田の方が実家から近く、コストがかからなかったため)

浪人してでも自分が本当に行きたかった大学に入学した方は、サークル選び、新歓合宿といったキャンパスライフが楽しくてたまらなかったでしょう。

高校時代につるんでいた友人のほとんどが、地方国立の医学部か東大に進学するか浪人を選択したため、ゼロから友人を作る必要がありました。

トネガワは、燃え尽き症候群にかかっていたため、サークルにも入らず、学費を稼ぐために学習塾のバイト以外は家と大学の往復生活をしていました。

工学部は男女比が9:1という極端な偏りを持った学部であるため、出会いを求めるには、文系キャンパスにまで足を運ばなければなりませんでした。

しかし、どことなく冷めていたトネガワは彼女を作る努力は、おろか女友達を作ることもしなかったのです。

そう、4年間以上に渡る大学生活における最初のスタートで、スタートダッシュに出遅れてしまったのです・・・

これでは、元々女性経験が豊富にあった人はもとより、大学デビューを果たした連中からもどんどん女性経験に差をつけられていくわけです。

結局、大学時代は、まともな女性経験を積むことができず、何も成果を得られませんでした・・・

ざわざわ、この時点に遡って人生をやり直したい、キャンパスライフを満喫したい・・・後悔先に立たずッ!

2010年4月~2012年3月:ブラック大学院時代

早稲田の工学部は、大学3年生のときに所属する研究室を決めます。

専攻や研究テーマを変えない限り、そのまま自分の所属している研究室から大学院に進学することになります。

トネガワは、充実したキャンパスライフを送ってはいませんでしたが、単位を落とさずに取るための友人関係はキープしていたので、成績が良く、すんなりと希望の研究室に所属することができました。

ちょうど自分たちの代の就職斡旋担当を務めるN教授の研究室に入門したのでした。(以降、N研)

N研は、卒業生の進路がよく、T田、N産、H田といった自動車業界のBIG3を中心に日本を代表する大手メーカーに就職する先輩がほとんどでした。

トネガワも今は充実したキャンパスライフではないが、N研でスキルを磨いていい会社に就職して20代中盤から巻き返そうと思っていました。

N教授は、授業が分かりやすく、気さくな方であったのですが、それはあくまで教育者及び就職斡旋担当としての表の顔でした。

研究者としては、一切の妥協を許さないという裏の一面があったのです。

あとで知ったことですが、世渡り上手な情報通の学生の間では、N研は適度に遊びつついい会社に入るうえでコスパが悪く、いわゆるブラック研究室のレッテルを貼られていました。

毎週金曜の朝に行われる研究進捗の報告会で、怒号が飛ばないことは稀であり、おおらかで頼りになる先輩や真面目で優秀かつ気さくな後輩が病んでしまって突然連絡もなしに研究室に来なくなることが何度かありました。

N教授は、悪気はなかったと思いますが、着火しやすい性格であったためか、トネガワもよく怒鳴られました。

N教授N教授

トネガワくん・・・どうして研究が進まないのかね?やるきはあるのかね。きみは、卒業まで毎朝8時に来て研究するようにッ!

トネガワトネガワ

(毎朝8時って、会社員でも出社していない人がほとんどなんですけど)あっはい・・・

そんな感じで、就職活動の時期を除いて、朝から晩まで研究室にいる生活が約2年続きました。

N教授は、スパルタでしたが、おかげで学会発表や就職活動はすんなりいきました。

ちょうどトネガワが大学院を卒業する前の年が、早稲田の125周年記念だったか節目の年でしたので、学園祭の時期にスペシャルゲストが来場しました。

スペシャルゲストとは、早稲田大学工学部出身であり、日本を代表する大企業の現役社長(当時)であるS社長です。

S社長は、トネガワが就職する会社の社長であったため、どうしても実際にお会いしてみたいと思い、トークイベントに参加しました。

S社長は、2011年の東日本大震災の影響で、ライバル企業のTOPが事業規模の縮小と人員削減を発表したのに対して、真逆の強気な発言と積極投資という攻めの姿勢を示したところに、事業に対する絶対の自信を評価され、剛腕経営者と言われていた方でした。

S社長の迫力は、功成り名遂げた者でなければ纏えないような独特の雰囲気があり、覇気で溢れていました。

S社長S社長

うちは、国内だけでなくてグローバルでイノベーションを起こして、世界一のメーカーを目指すから、優秀な学生を求むッ!

この発言の後、普段は学生からいい印象を抱かれていない傲慢な教授達がひたすらペコペコしていたことをよく覚えています。

その光景を見て、当時のトネガワは、S社長を羨望の眼差しで見ていました。

トネガワトネガワ

ククク、俺もこの会社で偉くなれば、150周年式典のときは、あの壇上にいることも十分あり得るッ!まさに、功成り名を遂げた者の特権、誰でもという訳にはいかぬッ!

今にして思えば、なんとも浅はかな野望です。数年後、この会社に起こる出来事によって人生設計が狂うことなど露知らず・・・

ざわざわ、この時点に遡って人生をやり直したい・・・後悔先に立たずッ!

ここまでの話は、直接的にはハゲと関係がないのですが、社会人になるまでのトネガワを語る上で、外せなかったので記載しました。

ここから先が、ハゲと恋愛の話になっていきます。